mazcomemo

i can't help it.

【ネタバレ注意】The Last of Us PartⅡの感想

以下が前提です。

めちゃくちゃ1も2もネタバレしまくっているので気になる人は注意してください。勢いで一気に書いたので誤字脱字、記憶違い、ミスリードがあると思います。暫定的な感想としてここに感想を書きます。

  • まだ1週しかしてない
  • 1の予習ほぼしてない(数年前にプレイした)
  • 収集要素や会話は気を付けて集めていたと思うのでほぼ見てると思うがネタバレや攻略情報などは見ていない
  • 発売延期から先のローンチトレーラーなどは見てない

物語の始まり

ジョエルが序盤で離脱する。これに関しては、私は正直めちゃくちゃ冷めた感情があって、彼の最期はこれだったんだなっていう変な納得があった、因果応報を感じたからだ。
なぜなら私は1の最後、ファイアフライを振り切った行動に関してかなりエゴを感じてしまったから。多分私の目線がエリーだったんだろう、ジョエルに対して不信感が芽生えたのだった。
彼自身のバックグラウンドや1で共にしたストーリーを知っているし彼の事も好きなのだけど、とても割り切って生きていたから余計にその行動に対して、感動というよりエゴとエリーと生きるという選択をした事に対して戸惑いがずっとあったので、この結末に関しては「あぁ…そうかこういう形で巡ってしまったか…」という気持ちだった。本作の復讐というテーマは何もエリーだけの感情ではない、もうすでにここから始まっていたのだった。

だけど今回はエリーとジョエルの1から2にかけての4年間に何があったがのちに語られるストーリーテリングだったので、ジョエルの死に理由があったのかを序盤では考える必要があった。あと少し気になっていたのはエリーが駆け付けても何も反応が無かったのも気になっていた、おそらくは殴られて意識が朦朧としてたので、何も出来なかったのだと思うのだけど、エリーを前にして無抵抗に死んでいくのは何かジョエルが隠している(死ぬ)理由がある?のかと思った、ラストのエリーとの会話のシーンで彼は許されて、1から2の間のエリーとの時間があったからその報いを受け入れたのかなと思った。エリーがこの後、復讐に走ることを知らずに。

エリーの復讐劇


発売前のティザー動画でギターを持ってジョエルらしき人物に話しかけられるものから想像するより、少し違った始まり方に感じた。憎しみはもちろんあると思うのだけどそれよりも、ジョエルは何故あんな死に方しなくてはならなかったのか?という理不尽な死へのショックの方がエリーには辛そうに見えた。なので旅の始まりはトミーを連れ戻すという始まりだったが、その捜索がてら見つけた手掛かりで戸惑いながら復讐に走っていくというものだった。段々と本来の目的は復讐のはずで、脳裏に過ぎるジョエルを振り切れるのでは、という思いで人を殺していく。ここが本当に辛いポイントだった。復讐は何も生まないけど確実に次の憎しみや矛盾が生まれる。

先述した通り、私はそもそもこの復讐に関しては一歩引いてしまっているので、エリーの気が済むなら復讐もすれば良いと思っている。こんな世界なんだから何が正解かなんて生きるか死ぬか、それを外から判断する民衆からの目くらいしかない倫理観で生きてる、という考えだと思う。だけどエリーも19歳になるまでに前作のファイアフライやそれまでに出会った人々、前作のDLCのLeft behindで一緒に噛まれたライリー、4年間のジャクソンでの生活でいくらか社会性や人間性も確立していったのではないかと考える。自分のセクシャリティに関しても差別的に描かれていないので受け入れられているのだと感じた。これがおそらく愛だった、これが失われる物語なのだなと思った。1の最初でジョエルが娘を失くすのと一緒で、日常が失われる、否応なく強い力によって。

復讐が進んでいくにつれてエリーはどんどんと不安定になる。正しくないことや暴力を、自分のエゴで行っている事に対しての反発だ。これはメタ的で、プレイヤーにも同じ事を感じさせている。もっとメタ視点でいうと私達はゲームを楽しむために(先に進めるために)暴力を振るうという手段でしか先を見ることが許されないのだ。今回は敵が人間が多かったように感じる。生身の人間を殺す時の断末魔や、ステルスキルの際に苦しむ表情、仲間が殺された時の激昂と絶望の声、その仲間一人一人の名前を呼んでいるのも一人一人に人生があったことを裏付けている。犬のアリスなんかも顕著な例だ。今作はモブキャラにも動物にも名前がある。とにかくストレスを感じさせる作りになっている。これは敢えてやっているのだと思うが相当なストレスだった。これがこのゲームの優れている所であり、賛否両論の根本である。なぜならゲームプレイとストーリーが密接だからだ。ストーリーだけでは語れない難しさがある。

アビー

シアトル最終日で視点が当然、追い掛けていた側の人間に変わる。前作に思い入れがある人ならこの視点は分かっていてもなかなか受け入れ難いであろう、アビーも結局は前作での被害を受けた側なのであった。そして彼女は最初から復讐と葛藤を常に抱えていたのだった。理由が分かっていても辛いと思う。だからこそエリーの行為にもストレスを感じながらプレイする事になる。アビーもまた復讐を果たした事で仲間との間に問題を抱えていた。元彼のオーウェンとその彼の子を妊娠しているメル。所属するWLFがセラファイトを徹底的に叩く作戦の事も少し疑問を持っていたように、暴力や復讐のその先が正しいわけではないのは彼女も一番分かっている、だけど目の前の暴力を止める事ができない。どこまで自分を追い詰めて、もしくは正当化すればいいのだろう?と戸惑う。この世界にはそれを裁くものはないから。ここはラスト近くのエリーの戸惑いとリンクする。しかしアビーはヤーラとレブに出会い彼らを救うことで少しでもこれからは正しくあろうとする。それに対してメルは疫病神、子供を使って何様のつもりだ。と罵る、オーウェンを守るためだ。また、オーウェンと自分達の関係も守るためだ。おそらくオーウェンは復讐心を除いたらアビーのことをまだ愛しているのかも知れない。割り切れない感情がここにもあった。それをメルはわかっていたのだと思う。

アビーがレブを助けに島に向かい、レブから何でここまでするのか?聞かれた時に「自分のためでもある」と言っていることからも、劇場でエリーとディーナにとどめを刺さなかった時から、復讐の因縁から解放されたのだと思う。最後、エリーともう戦わないと言ったことからもその決意は感じられる。

子供

今作は選ばれなかった側の人間を描いているのではないか?と感じた。
感染のワクチンを作るはずだったエリー、そのワクチンを作る父親が殺されたアビー。

アビーの復讐に付き合ったばかりに気まずくなったオーウェンとの仲(その前から別れていた、メルとの間に子供がいるというのは冒頭のロッジでわかるが)をどうするべきか悩んでいたり、結局のところ復讐を優先させてしまい、パートナーとして選んでもらえなかったアビー。
前作で自分の命の使い方を覚悟したがジョエルにより阻まれて罪を抱えながら生きて、セクシャリティ、愛を育むことはできてもディーナと自分を繋ぐ子供を成すことのできないエリー。

その二人が希望を見出すのはいつも子供だった。前作のエリーがそうだったように、子供は希望の象徴として描かれている。エゴがなく許し受け入れる存在とされているからだと思う。アビーにはレブが、エリーにはJJだったのだと思う。だがエリーは復讐を成し遂げていない事がずっと心に残り続ける。男女の違いもあるのかも知れない。母親としてディーナは今までのことを忘れて目の前にある子供に希望も持って生きることを選ぶ、そこに過去の事を持ち出すトミー、トミーもまたまだ過去を引きずり、マリアとの関係を解消させていた。ディーナだってジェシーが居なくなったことやエリーの抱えるトラウマなど辛くない訳がないのにトミーはジャクソンから離れたその距離感を責める、復讐を終えれば何があるのか?忘れるという事は許されないんだろうか?と、ここでもエリーを追い詰めていく。

なくしたもの

失くしたものが多すぎる、どうしてこうなってしまったのかというラストも堪えた。ギターの弦を押さえることが出来ず、何か物足りない音を奏でるギターがその証拠だ。道中でギターを見つけてはジョエルを思い出すかのようにギターを弾く、最後はジョエルから与えてもらった音楽を奏でる事ができなくなってしまった。そして帰った家には待ってくれる人は居なかった。これが復讐の代償。でもエリーは最後アビーにとどめを刺さなかった。彼女も、また復讐という暴力から解き放たれたんだと思う。もちろん行く当てのないジョエルへの気持ちがあるが、それがラストのジョエルとエリーのシーンからわかる。許したいと思う。これに必要なのは傷を癒すための時間しかない。

ジョエル

今作はジョエルの物語ではなく、エリーの物語だった。それが復讐という手段になってしまった事は残念だと思う、本来は愛を描きたかったのだと思う、そのための憎しみというテーマだった。綺麗事では語らないのがこのゲームの容赦のなさだと思う。つまりエリーの復讐劇で描かれる根源にジョエルへの想いがある。今作は1から2までの過去回想が時折差し込まれ、その間にエリーとジョエルがどういう関係性になっていくのが描かれた。最初はまるで親子のように信頼し合って生きている。ただ大人になるにつれて自分は何故生きてるのか?ジョエルが言った嘘を信じることと、ジョエルとこのまま一緒に生きることは相反する事だったのだと思う。心のどこかでは嘘は本当だといいなとエリーも思っていたと思う。しかしそれは信頼なのか?ここがエリーのアイデンティティを語る上で苦しませた。本当は正しくありたいはずだったのに、ジョエルはエリーの命を救った。今を生きている事を否定したくない。行き場のない気持ちがある。「神様がもう一度チャンスをくれても同じことをする。」これがジョエルのエリーに対する誓いだ。この言葉を聞いて、エリーはまだわからないけど、許したいと思う。と言う。それには時間が必要だった、だがこの後にあのロッジでの出来事が待っていたのだった。

このゲームについて

本当に丁寧に作っている。それ故にしんどさや救えなさが半端では無い、それはこのゲームがそう感じるように出来ているから、そう感じているならノーティの目論見通りだと思う。ここは賛否両論あるだろう、それほどにまでゲームだと思わせないリアルさを容赦なく追及している。ただ私はこんなにもストーリーとゲームプレイが密接に感じることに、このゲームが優れていると感じる。同じチームの制作であるアンチャーテッド4だったらどうだろう?と考えるとやはりストーリーが違うとこんなにも感じ方が違うんだなと思う。細かいドキュメントの作り込みや会話や掛け合い、そのひとつひとつの丁寧さや、話題のアクセシビリティの対応からもクリエイターならその配慮に感動してしまう。1の時にも感じたが壁に沿うとキャラクターが壁に手を添えるのを見た時から感じる細やかさは相変わらずノーティの最新作であり集大成を感じる。

辛い思いをしてまでゲームをしたくない、ゲームはエンターテイメントだ、という意見があると思う。先に書いたメタな要素にも関わるが、作中の小ネタでWLFのメンバーがPS Vitaをプレイしている場面がある。そこでプレイされているのはHOTLINE MIAMIというゲームだ。このゲームは現実に実在するゲームである。このゲームが作中に出た時は驚いてしまった、なぜなら細かい事はここでは語らないが、このゲームも暴力を描くゲームだからである。HOTLINE MIAMIの中でもメタな要素としてプレイヤーに「人を傷付けるのは好きか?」と問いかけてくる。普通の感覚なら「好きではない」(一部には好きな層もいると思うが倫理観の観点から大方の意見はこうだろう)と思うであろう。ただ、プレイしていてキャラが死ねばリスポーンしてクリアするまで繰り返し、暴力を振るって敵を殺し前に進む。そういうことしか出来ないのがゲームの本質だ、ゲームにはルールがある。そのルールが暴力を振るって敵を殺し前に進むというルールなら、プレイヤーは何の疑問もなく暴力を振るって敵を殺し前に進むだろう。

どうだろうか、暴力や殺人をエンターテイメントにしてないか?敵を倒す時にカッコいいエフェクトが出ようが、華麗に回避して派手に技を決めようが、あくまでも演出であり、手段は暴力である。今作はこれを自覚させる作りであると今作の暴力表現を考える。なのでこのゲームのプレイしたしんどさとストレスはこれらに重み付けされたゲームスタイルであり、あのストーリーであると考える。そしてそれが物議を醸すストーリーでも、描きたかったことなのだと思う。プレイヤーはプレイするだけの存在ではなく、殴るというボタンを押さざるえないもう一つの登場人物なのかもしれない。これをこのトリプルA級のタイトルでやるのだからノーティは底知れない。没入感は写実的でリアルな描写だけではないという意味でHOTLINE MIAMIが出ているのではないかと勘繰っている。

暴力から解き放たれたエリーが、あのあとどこへ向かうのか。できれば誰か待っている場所か、やり直せるようなところに向かっていて欲しいと願うばかりだ。